
日本犯罪史に残る「津山三十人殺し」事件を下敷きに、閉鎖的な村社会と病への偏見が生んだ地獄を、容赦なく描いた本作。停電した暗闇の中で続く大量殺戮の描写は、和製スプラッターとも呼ばれるほど過激で、見るにはそれなりの覚悟が…。一方で”真面目な青年”がなぜここまでの凶行に及んだのか、その背景もしっかりと描かれます。名女優たちの体当たりの演技も大きな見どころで、特に若き日の田中美佐子の初々しさは必見。
作品データ
【製作年度】1983年
【製作国】日本
【上映時間】105分
【監督】田中登
【キャスト】
古尾谷雅人、田中美佐子
池波志乃、五月みどり ほか
あらすじ
1938年に岡山県で実際に起きた「津山三十人殺し」事件を元に描かれた問題作。その凄惨さから、和製スプラッターの異名を取った。猟銃や刃物を手にした”青年”が、まず村一帯を停電させ、暗闇の中で次々と村人を襲撃。犠牲者はおよそ30人にのぼり、事件後、犯人は自ら命を絶った。真面目だった青年は、一体なぜこのような凶行に及んだのかー(allcinemaより)。
年齢制限は?
R15指定なので、15歳以下の方はご覧になれません。
どこで見れる?
| 見放題 | 課金 | |
|---|---|---|
| Amazon プライム | ー | ● |
| U-NEXT | ● | ー |
| Netflix | ー | ー |
| Disney+ | ー | ー |
レビュー ( 2026・01・15 )
1、日本犯罪史に刻まれた惨劇
『八つ墓村』のモデルとも言われる事件
『丑三つの村』のモデルとなったのは、1938年5月に岡山県の山あいの村で起きた、いわゆる「津山三十人殺し」と呼ばれる凄惨な事件。
猟銃や刃物を手にした犯人が、まず村一帯を停電させ、暗闇の中で次々と村人を襲撃。犠牲者はおよそ30人にものぼり、事件後、犯人は自ら命を絶っています。
この事件は横溝正史の『八つ墓村』のモデルになったとも言われており、タイトルとしては『八つ墓村』の方が知名度があるかもしれません。
2019年に「京都アニメーション放火殺人事件」が起きるまでは、1人の人間が殺害した人数としては最多の犠牲者数だった。
『八つ墓村』と『丑三つの村』の違い
実は、「八つ墓村=津山事件そのもの」ではありません。
横溝正史が取り入れたのは、「短時間で多数の犠牲者が出たという衝撃」と「山村という閉鎖的な空間」といった要素の一部にすぎず、物語の内容自体はフィクションとして再構築されているようです。
その点で言えば、本作『丑三つの村』は、実際に起きた惨劇の重さを、かなり直接的に描いた映画となっています。
また、惨劇をそのまま再現するのではなく、「なぜ、ここまでの事態に至ったのか」という背景にも踏み込んでいます。
2、欲望と慣習が支配する村
夜這い文化が“日常”だった時代背景
正直に言うと、私自身もこの映画を観るまで、当時の村に夜這いのような文化があったことを深く意識したことはありませんでした。
本作の主人公・継男もまた、最初からその世界にどっぷり浸かっていたわけではありません。
真面目で大人しい性格の継男は、ある日、友人から「夜中に村の連中がやってること、見てみろよ」と半ば面白半分にそそのかされ、その“習慣”の存在を知ることになります。
村一番の秀才ともてはやされていた彼も、戸惑いながら次第に村の女性たちと関係を持ち始めるのです…。
ここで描かれているのは、単なる好奇心や性欲だけではなく、閉鎖された共同体の中で「拒むことができない流れ」。
村という閉鎖的な環境が、人の理性を少しずつ鈍らせていく様子が淡々と描かれていきます。
女優たちの大胆な演技も話題に
『丑三つの村』は、ショッキングな内容だけでなく、当時としてはかなり踏み込んだ成人描写でも知られています。
というのも、本作にはこんなバージョンのジャケットも(Filmarksもこちらが採用されています)。どう見ても”そういう”映画…笑

実際本作には、池波志乃や五月みどりといった実力派女優が出演し、大胆な役どころを演じています。この2人については、ある意味で想像通りというか、ベテランらしい安定感が。
しかし本作で最も強く印象に残るのが、継男の恋人を演じた、当時24歳の田中美佐子(ジャケット右)。
とても初々しく、ノーメイクで驚異の可愛さ…。覚悟のいる役柄でありながら、無垢さも失われておらず、そのアンバランスさが、作品全体の不穏さをより際立たせています。また、可愛いだけでなく、演技もしっかり上手いです(!)
こうした女優たちの体当たりの演技は、単なる話題性のためではなく、この村がどれほど歪んだ価値観の中で成り立っていたかを、強烈に印象づける役割を果たしています。
ちなみに、ソレっぽいシーンがありそうな大場久美子に関しては、実はそんなシーンはありません…。
本作は公開当時、映倫から「全編が非道で残虐的」と判断されR-18指定となり、海外では『Village of Doom』のタイトルで公開されましたが、その後DVD化(2009年)や配信にあたってはR-15指定へと変更されています(wikipediaより)。
気になる方は、こちらから鑑賞できます◎
記事の最後にまとめてあります
3、「結核」という病の社会的意味
忌むべき存在だった「結核」
御国のために立派な軍人となることを志していた継男ですが、ある日結核という診断を下されます。
現代では治療可能な病として知られる結核ですが、本作の舞台となる時代においては、その意味合いはまったく異なります。
結核は「死に直結する病」であると同時に、周囲に移る“忌むべき存在”として強く恐れられていたようです。
さらに当時の日本では、結核を患ったことで兵役に就けないこと自体が、国に尽くせない人間として侮蔑の対象になるという側面もありました。
病気である以前に、「役に立たない存在」として見られてしまう現実があったのです。
この映画で描かれる結核は、単なる医学的な問題ではなく、村社会における“排除のスイッチ”として機能しているのが印象的です。
「仲間」から排除へと一変する村の態度
それまで村の秀才ともてはやされ、女たちとも関係を持っていた継男は、結核を患った途端、まるで別人のような扱いを受けるようになります。
戦地へ赴くことなく家にいる継男に対し、昨日まで笑顔で接していた人々が距離を取り、助け合いのはずだった共同体は、一気に冷たい顔を見せ始めます。
この急激な掌返しは、観ていてかなり堪える部分でもあります。継男が追い詰められていくのは、病気そのものよりも、「もう仲間ではない」と突きつけられる瞬間なのです。
村という閉鎖された世界では、1度“外側”に追いやられた人間に、逃げ場はありません。本作は、その残酷な現実を、淡々と、しかし容赦なく描いていきます。
誰かを「危険な存在」として線引きしてしまう感覚は、コロナ禍初期のあの空気と、どこか重なって見えてしまいました…。
4、掌返しの果てに生まれた殺意
恋人”やすよ”との別れ
村の中では、どちらかというとカースト上位にいたはずの継男。
夜這いという慣習の中で、複数の女性と関係を持ち、やすよ(田中美佐子)とは恋人同士として、強い絆で結ばれていたはずでした。
しかし、結核を患ったことで、ともよからは別れを告げられ、さらには彼女が別の男性と結婚するという事実を突きつけられます。
それは裏切りというよりも、「もう、あなたの居場所はない」と静かに突きつけられる感覚に近いものだったのかもしれません。
村の秩序のための「排除」という現実
ここで印象的なのは、継男がすぐに凶行に及ぶわけではない点。怒りや絶望は、ある日突然爆発するのではなく、少しずつ、静かに溜まっていきます。
だからこそ、この殺意を単純な復讐心として片づけることはできません。
もちろん「仕方がなかった」と言ってしまうのは言いすぎですが、追い詰められていく過程の感情の揺れは、かなり丁寧に描かれています。
さらに継男が知ることとなった、村の秩序を守るために行われてきた“排除”。村で問題を起こした者や厄介者が、自害と見せかけて実は村人たちによって消されていたという事実を目の当たりにするのです。
それを知ったことで、「次は自分が消されるのではないか」という恐怖が、現実味を帯びて迫ってきます。
逃げ場のない村、失われた人間関係、迫る死の気配…。
継男の中で、怒りと恐怖が絡み合い、やがて取り返しのつかない方向へと向かっていきますー。
5、20分に及ぶ襲撃シーン
それは、”祖母”から始まる…
継男は、事前に自作の村の地図を広げ、襲撃する家に印をつけるという、異様なまでの準備を整えていました。
そして、決行日の深夜。
最初の犠牲者となるのが、自身の唯一の肉親である”祖母”(おばやん)。
すでに自分も最後には命を絶つ覚悟を決めていた継男は、寝ている祖母に「…おばやん、ひとりにはしない。笑って見送ってくれや…」と語りかけ、斧を振り下ろす。
自慢の孫であり、結核を患った継男のことを最後まで気にかけていた祖母ーー直接的な描写は映さないものの、ここが個人的には最も耐え難い場面でした…。
さらに「…おばやん、おれを夜叉にしてくれ…鬼にしてくれ…!」と、自らを鼓舞するように叫びます。
情けと狂気が入り混じる、無差別殺戮
継男は、自分を直接手のひら返しした女たちや、陰で悪口を言っていた者たちを中心に、次々と命を奪っていきます。それは、老人や子どもにまで…。
一方で、自分に直接の害がなかった村人は見逃すという、歪んだ“線引き”も。
猟銃による一撃は重い衝撃があり、停電で真っ暗になった家屋の中、頭につけたライトが照らし出す血の描写は、あまりにリアル。
防犯という概念すらなかった時代の家々に、当たり前のように侵入し、家から家へと渡り歩く。
日本刀、短刀、猟銃と、確実に仕留めるための武器を使い分けながら続くその行為は、こちらの感覚さえ麻痺してきます。
終盤、池波志乃演じる女性のもとを訪れた継男は、彼女を殺害した後、「”ここ”がいけないんや!」と叫ぶと、下腹部に一発を撃ち込みます。
女性の象徴を破壊するこの行為は、女性そのものへの恨みだったのでしょうね…。
この役を背負った、古尾谷雅人という存在
そしてなんと言っても、本作を語る上で避けることのできない、古尾谷雅人の存在。
血走った目、殺気をまとった表情、その異様な迫力には、呆然とさせられます…。
この役を演じるにあたり、どれほどの精神力を削ったのか。スクリーン越しでも、それが並大抵ではなかったことは確かです。
私のなかでは古尾谷雅人というと、ドラマ『金田一少年の事件簿(堂本剛版)』の剣持警部の印象が強いです。スラっとした高身長で硬派なイメージの俳優さんでした。
後年、彼自身が自ら命を絶ったという事実を知ると、この役が持つ重さについて、どうしても考えずにはいられません。
6、近年多い「村ホラー」
近年、『ミッドサマー』『ガンニバル』『嗤う蟲』など、洋邦問わず閉鎖的な村社会を舞台にしたホラー作品は数多く作られています。
因習や排他性、よそ者を受け入れない空気といったモチーフは、もはや定番と言っていいかもしれません。
ただ、本作がそれらと決定的に違うのは、これが実話をもとにしているという点。
もちろん、どんな理由があろうと、これほど残忍な行為が許されるはずはありません。犯人の行動は、明確に断罪されるべきものです。
しかし同時に、この映画は「異常な個人」だけを描いて終わる作品でもありません。
結核という病、兵役に就けないことに対する強い偏見、逃げ場のない閉鎖的な村社会。
そして当時は“村に属すること”が人生のすべてだったという現実。
そうした環境が、人を少しずつ追い詰め、歪めていった可能性から、目を背けることはできません。
『丑三つの村』が恐ろしいのは、「特別な怪物」が起こした事件ではなく、現実の中で生まれてしまった悲劇として描かれている点にあります。
単なるホラーや猟奇映画としてではなく、史実としての背景や社会構造に興味がある方には、ぜひ一度、覚悟を持って向き合ってほしい作品です。



